気のいいはずの男はお礼も言わず悪態をついた

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庭で作業をしていると見知らぬご夫婦が訪ねてきた。
このご近所にT橋さんというお宅はありますか、と言う。
じつはその苗字は数件あるので下のお名前は?と尋ねようとしたら、カギの束を拾い、そこに「T橋」のネームプレートがついていたのだという。
落ちていた場所を尋ねると我が宅裏口そばの橋の上。
「お近くの方のものかと思って」とおっしゃる。
失礼ですが、と拾い主のお名前を尋ねると聞き覚えはない。
隣の自治区にお住まいでたまたま通りがかったところ見つけたそうだ。
知り合いもなく、とりあえず当該地区の住人にと最寄りの家に届けてくださったのだろう。
僕は丁寧にお礼を述べ、お預かりすることにした。
「私は〇〇と申します。この件確かに承りました」
なんなら「ツカマツリソウロウ」ぐらい付け足す勢いのかしこまり具合で受け取った。

さて、とはいうものの本当に「T橋」のお宅は多く、しばし途方に暮れた。
しかしこのまま持っていてもしようがないので、作業を中断し、汗をぬぐい切らぬまま着替え、マスクを装着の上、小雨のなか1件1件訪ねて回ることにした。

最初の「T橋」さんは「鍵は失くしていない」とおっしゃる。
そこから坂道を登った2番目の「T橋」さんは網戸のまま座敷が全開となっているというのに何度挨拶を述べても返事がない。
すると隣家から「お留守ですよ」の声。振り向くと40代半ばと見受けられる小太りの男性がこちらを向いている。

お礼を述べながら、そちらの玄関の前を通ったついでに、もしかしたらお名前は「T橋」さん?と尋ねると「そうです」と返ってきた。
じつはこの御仁、コミュニティに加入しておらず、まだ実家に帰って2年半の僕は初対面だった。
すぐさまカギを失くしていないか尋ねると、いぶかしげな表情を見せる。これなんだけどと鍵の束を見せると顔つきがさっとするどくなり、いきなり汚い言葉で誰かを罵るかのような悪態をついた。
意味が分からず、もう一度あなたの持ち物か尋ねるとようやくうなづく。「店の鍵」だという。
ここで僕はようやくその人物の身元に当たりがついた。

うちの母がよく知る老婦人の三男で食堂に勤務している。最近ほぼ空き家状態となっている住まいを訪れ片づけをしているそうだ。というのも先日母が路地に面した土手で草取りをしているとゴミステーションにやってきた彼と話をした。
その方の母は階段から転げ落ち目下入院中という噂を耳にしていたので尋ねると彼は「困ってなんかいないよ。保険に入ってたからね。ぜんぜん大丈夫」と答えたそうだ。うちの母にとっては社交辞令の声掛けだったが思わぬ本音が聞け「おもしろい子」だとうれしそうに評していた。

ああ、それがこの御仁か。さっきの不在を知らせる親切といい、なかなか気のよい人物であるはずだが、いまは別人のようだった。
彼は他にも何か落ちていなかったか、と聞いてくる。私が拾ったわけではないのでそこに何があったのかまでわからない、と答えたが、ふと気になることがあったので教えた。

最初の「T橋」さんから坂を上って来る途中、黒いショルダーバッグがなぜかコンクリートの擁壁の途中に設けられた丸い排水パイプの出っ張りに無造作に掛けられていたのだ。最初見たとき落とし物だろうがこんな1~2軒しか利用しない小路になぜと思っていたが、たぶんこの御仁が探しているものだろうと察した。

彼は「このところいっぱいいっぱいで」と初めて愚痴を口にした。
黒い鞄のあった場所まで坂を下り案内すると彼は「ああ」と言った後、また汚い言葉を吐いた。
彼はこのところの自分を罵っていたのだ。

たぶんこの鞄の拾い主は最初の家の「T橋」さんだろう。じつはその御仁とは親類関係だが、最近仲がこじれ、彼に貸していた家の整理を命じたものと思われる。
彼を「いっぱいいっぱい」にしていたのは途方もないゴミとの闘いだったのだろう。

地方の長閑な村とはいえ、いや多くの者がこころを閉ざした井の中ゆえか、1軒1軒に目を凝らすと――もちろん自戒を含め――肥大した自尊心が不親切やいさかいを生んでいる。
気のいいはずの彼からはけっきょくお礼の言葉は出てこなかった。この御仁に幸あれと願い僕は家路についた。

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