Kと僕はそろって大学受験に失敗し浪人生活に入った。僕はKの誘いで駅前の喫茶店でアルバイトを始めた。Kは交差点の向かいにある小さなラーメン店。地元の名士の息子さんが関わる2店だが、Kは僕に喫茶店を譲った。
ともに開店から閉店まで終日勤務で通勤がたいへんだろうと喫茶店の店長とチーフが入る家に住まわせてもらうことになった。
そして働いたお金で、空いた時間にそこから自動車教習所に通った。
そこでの経験は19歳の田舎男子にとって目から鱗の青春だった。
喫茶店のすぐ近くには女子高があり、下校時を狙っては窓掃除に出た。
アルバイトの先輩は2階にある大きなガラス窓に白い泡スプレーで「〇〇〇(店名)のシンをよろしく」と書いた。さすがにそこまでの勇気はなかったが、窓掃除でさえたのしい時間であったのはたしかだった。
喫茶店のテーブルがつぎつぎとテレビゲームに置き換わっていった時代だった。通常1回100円のゲーム代がかかるが、なかの人間は休憩時間に無料でいくらでも遊べた。おかげてブロック崩し、インベーダーゲームはかなりの腕前まで達した。
店内にはつねに有線放送が流れていた。10円で1曲、オペレーターに電話でリクエストができた。そのオペレーターと親しくなれば、たとえば10曲リクエストし、連続で流してもらうことも可能だった。
アラベスク、ボニーM 、ヴィレッジ・ピープル、バリー・マニロウ…それらをカセットに録音し、最新ヒット曲のマイテープを作った。
ある日、仕事がはけた夜10時、僕らは近くのスナックに繰り出した。そこはオーナー行きつけの店だった。夜がさらに更け、貸し切りの状態になるとテーブルと椅子を端に押しやり、狭いフロアをディスコに変えた。
だいたい踊りなんて経験もセンスもない僕だったが、たまに新宿に繰り出すという店長とチーフをまね体をくねらせた。「ハロー、ハロー、ミスターモンキーッ」の後、頭の右横で手を叩くという妙な決まり手はこのとき覚えた。
僕は絵を描いたりデザインしたりするのが得意で店の手描きPOPはすべて任されていた。感心したオーナーが地元の小さな商業紙に紹介してくれ、新進デザイナーとして紹介されることに。その縁で他店のメニューをデザインしたこともあった。
浪人生としてあるまじき道草だったが、後に会社を興す理由につながるから何が人生を左右するかわからないものである。
春から夏までこの店で働いたが、後半はカウンターを任されるまでになっていた。クリソ、オジュー、バナミ、チョコパ、サンデーなど、たいがいのものは上出来にこなせた。
たまに店の窓から通りを見下ろすと、向かいのラーメン店でKが餃子の仕込みをやっていた。車道に接する狭い店先にひとり、大きなアルミの機械でキャベツを何度も押し切っていた。
(つづく)