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高校進学の叔父からのお祝いはSEIKOロードマチックだった

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今年75歳になった叔父がシクラメンの鉢植えを届けてくれました。例年のことで「道の駅」に出荷しているうちの一つを分けてくれるのです。

このあと年末には稲藁で編んだしめ縄をこしらえてきてくれます。実家の地方ではそれは鳥居のような形をしています。頭に橙とウラジロとユズリハ、幣束を、また両足元に松と竹の葉を麻ひもでくくり付ければ正月飾りの完成です。大神宮様と年神様に横並びで供えるとそれは壮観で「ゆく年くる年」で中継していただきたいほど厳かです。ただ昨年、屋敷内のユズリハの木が倒れてしまいこれだけはもう調達できません。この正月も欠いたままとなるのが少し残念です。

さて、久しぶりにお会いし、めずらしく暖かい日だったので上がりかまちで長話をしました。

庭の向こうに見える納屋を指さし思い出を語ってくれました。

そこは昔牛小屋だったところです。正面にコンクリートで仕切られた丸い大きな穴(サイロ)がかつてあり、冬用の飼料にと刈り草が詰められたことがあります。幼い頃、冷たく濡れた鮮やかな緑の草の上に立ち、大人のまねをして踏んだ記憶がかすかにあります。ただ不思議なことにその経験は1回だけでした。

偶然にも叔父はその理由を教えてくれました。

冬、穴(サイロ)のフタを外すと幾重にも積まれ満杯になっていた刈り草はつぶれ、上部にひとの胸ほどの高さのスペースができていました。せっかちな叔父らしく、勇んで入ろうとすると祖父(叔父の父)が制したそうです。

先を曲げた針金の先にローソクを灯し、差し入れると、その炎はスッと消えました。刈り草が発酵した結果ならばメタンガスが発生し引火するはずですが、たしかに炎は消えたそうです。慌てた祖父は穴(サイロ)を一度も役立てることなく壊しました。なるほど、だから記憶が定着していなかったのです。

また僕が生まれる前の出来事も話してくれました。

前述の牛小屋ができる前は屋敷の北側に小さな牛小屋があったそうです。庭よりも2mほど下がった田の脇で、近くには小川が。そこで乳牛1頭と雄牛1頭を飼っていました。

ある年、豪雨に見舞われその牛小屋が水没しそうになりました。祖父は首まで流れに浸かり2頭の牛を引き上げ救ったそうです。

その後埋め立てられ護岸工事が施されています。2019年の豪雨時には、水位をたびたびチェックしました。想像するにほぼ同じ高さまで浸水したようです。

わが実家にも歴史あり。記憶を受け継ぐよい機会となりました。

叔父が結婚する前、父と叔父と僕との3人で耕運機に乗り、庭に敷く土を山に掘り出しに行ったことがあります。父と叔父は競うようにシャベルで荷台に土を放り込んでいました。危ないから乗るなと僕は言われていたのですが、うかつにも荷台に上がってしまいます。そのとき叔父のシャベルの切っ先が僕の右目すれすれのこめかみに当たりました。血が噴き出し、慌てた叔父は何度もごめんごめんと泣いて謝りました。

その後、けっこう大人になるまで僕の右目のキズを確かめては「あのときは悪かったなあ」と言いました。

 

unclewatch

 

高校に進学したとき、叔父はお祝いに腕時計を買ってくれました。今でも身近に置いておきたくて、机の最上段の引き出しにしまってあります。SEIKOロードマチック。大人になり山登りをしていた頃は必ずお守りとして身に着けていました。

僕は腕時計や指輪、ブレスレット、ネックレスなどを肌身につける習慣がありません。むしろ邪魔くさく好みではない。しかしこの腕時計だけは特別な存在です。

立派な体躯を持ち、つねに明朗快活でしたが、さすがに75歳の叔父は小さく細くやや衰えて見えます。

いま腕時計を取り出し竜頭でゼンマイを巻いてみました。止まっていた秒針は即座に反応し、何事もなかったかのようにまた時を刻み始めました。

 

 

 

 

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