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僕がひとを好きになる瞬間

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お盆の墓参りでのことです。

線香の束を手に持ち、先祖の墓に供えていると、先におさごと花を供え仕事を終えたつれあいが「わあ、見て見て。タマムシ!」と声を上げました。近づくとなるほど足元に七色に光る亡骸が落ちています。

そのとき僕の右手では線香が炎を上げ、餓鬼を責めるように皮膚を焼いていました。いやいや、そうじゃなくて、線香をあげるの手伝ってよ。僕は怒声を押し殺し、笑顔で束の半分を渡したのでした。

だってタマムシは彼女にとって、そして僕にとって特別な存在なんですから。

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法隆寺に収蔵されている国宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」を教科書で初めて知ったのは小学生だったか、中学生だったか。虹の申し子のように七色に輝くタマムシの翅をびっしり貼り付けた立派な箱の子どものような発想に僕はしびれました。

やまなしの流れ来る渓流のクラムボンや岩間に閉じ込められた山椒魚が頭から離れなくなったように「玉虫厨子」も僕のファンタジーになりました。

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つれあいと暮らしはじめ、数年経ったときのことです。たぶんNHKの日曜美術館だったと思います。「玉虫厨子」が紹介されました。つれあいは教科書で初めて知ったときのことをしみじみと語りだしました。彼女もそれが大好きだったのです。

僕はその瞬間、彼女といっしょになったことのしあわせを噛みしめました。

人生の繊細な時期の、ごくごく個人的な体験を共有する、まるで生き別れた双子の片割れをついに見つけ出したような喜びがそこにあったのです。

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こうしたことは、ほかにもありました。

大学生のころ(といっても1年ちょっとで中退したのですが)、よく行動をともにした仲間のひとりが暇つぶしの喫茶店で「こんなことなかったか?」と思春期の体験を語りだしました。

夜ベッドに横になり、今日や昨日、過去の自分の行動を思い出し、体がギュッと縮まることがある。拳を握り、腕を胸の前で固く曲げてしまう、と。

僕はまるで自分の秘密を暴露されたかのように彼を凝視し、その率直さに感嘆しました。

たしかにはずかしさや後悔に身もだえし、まるでジャーキングのように腕を突き出さずにはいられない衝動が僕にもありました。

自分のなかでまだ言語化されていない、気付いてもいなかった、心のあり様を見事に取り出してみせた彼を僕は尊敬し、なんでも話せる友人として一目置くようになりました。

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僕がひとを好きになる瞬間。それはごくごく私的であるはずの体験をそのひとに見出したときです。小説の主人公に共感し一体となるように、脳内の無限に狭い部屋のなかで、僕はそのひとを抱きしめて離しません。

とりとめのない会話に突如として姿を現す僕の愛すべき分身。タマムシにそんなことを思う墓参りでした。

 

 

 

 

 

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