「人生を楽しむんだよ」と叔母は言った。あのひとらしい直球のアドバイスだった。
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お歳暮のビールが届いた、とのお礼の電話。「エビス」はちょっと高いので家に残る娘さんが飲む。今年は「一番搾り」だったので、旦那さんが「俺のものだな」と喜んだという。変な家族である。
夏には嫁に出した下の娘さんの義父母の知り合いという農園に注文し豪華な葡萄の箱詰めを、秋には旦那さんが兄に米30kgを注文し贈ってくれる。それに対するわずかな返礼だ。
申し訳ないので、ある年断ろうとしたら旦那さんに「わかってないなあ」とたしなめられてしまった。
叔母は父を含む四人兄弟の末っ子だ。旦那さんも東北生まれの末っ子である。ともに故郷を離れ、それぞれの実家から支援してもらい大いに助かった。そのお礼なのだと言う。とにかく義理堅い。
叔母はパート時代に卓球に、年金暮らしとなってからは低山のトレッキングにはまった。祖母の血を受け継いだ社交家だったのでたくさんの仲間がいた。その後病を患い、一時は鬱気味だったと、妹から漏れ聞いた。具体的な病名をこのたびの電話で教えてもらった。いまはそれも癒え、麻雀にはまりたのしくて仕方ないという。
麻雀と言えば「あんたが大学辞めさせられたのを思い出してさあ」と叔母はその電話で痛いところを突いてきた。これで2度目である。お米のお礼の電話をし、ふいに振られたとき、じつは覚えていなかった。その後、思い返し蘇った。
父は賭け事が大嫌いだった。僕が浪人してやっと大学に入学しても、家に帰らずバイトと賭けマージャンに明け暮れていたのを見て「もう学費は払わねえ」と宣言したのだ。昔から反りが合わなかったので売り言葉に買い言葉。「なら辞めるよ」とあっさり通学を放棄(ひとには中退と言っているが学費を払わなかったので有り体に申し上げれば除籍だった)し引きこもってしまった。
当時は反発したが、後から見ればこれがよい薬になった。父のおかげで自らの不明に気付かされた。およそ3ヵ月間うつうつと眠り続け、ついにこのままではダメだと思い至る。そしてゼロからやり直した僕はようやく人生を始められた。
あのままではろくな人間になっていなかっただろう。いまも大した禄を稼いでいるわけではないが、もっとロクデナシだったはずだ。
そういうわけで父への怨念はすっかり消え去っていたので、叔母から当時の話をされてもピンとこなかったのである。
叔母はなぜ僕が実家に帰ってきたのか、その理由を妹からよく聞いていたのだろう。母と実家を守るという使命感でカチコチになっているように映ったのか。「人生を楽しむんだよ」はその上でのエールだったのかもしれない。
世の中にはど真ん中すぎてなかなか表に出せない言葉がある。言った方も言われた方もちょっと赤面してしまう類の言葉だ。しかし叔母さんという種族には意に介さないひとがたまに存在する。そうした魂のナチュラリストがそばにあることを、僕はこころの底からありがたいと思っている。