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「南無」を宗教の世界に留めておくのはもったいないと今朝気付いた

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このところ単調な毎日に飽き飽きした気分を抱えていました。

日々、こなすべき用件は多かれど、実家やコミュニティのことなど“何かを処理すること”どものなんと煩わしいことか。

己の信じる力を十分に発揮し、本来あるべき理想の姿を実現すべく一途に働くことの難しさ。周囲との協調、たとえば「他者を煩わせない」という事なかれ主義の田舎にうんざりしていました。

梅雨のさえない空模様。ついつい摂りすぎてしまう炭水化物。そんなことも影響していたのかもしれません。

日々の生活に目標などありはしない、といわれます。日々は朝晩の繰り返しであり、ただ生きる、与えられし時間の消費であるという考え方です。すなわちその単調をいかにやり過ごすかが生きる極意ということなのでしょう。

母との朝食を作りながらそんなことを考えておりましたところ、ふと、思い浮かんだのです。

「今日に、南無阿弥陀仏だな」

そう、僕はそのとき「今日」という存在を前に「仏様、おすがり申し上げます」と唱えたのでありました。

「南無」とは「尊敬し、帰依します」の意の仏教語。くだけた言い方をすると「信じますからお救いください」という宣誓の言葉です。

これまで阿弥陀の大悲にすがることの救いにばかり目が行っていました。阿弥陀が成仏したときからすでに阿弥陀の願いはかなえられており、その結果、悪人でさえ救われる約束になっている。阿弥陀経の世界はそうなっているので「南無」を捧げ帰依するのがよい、というわけです。

しかし今朝、僕はもしかしたら阿弥陀でなくてもよいのだな、と思いました。事実、「南無妙法蓬華経」「南無太師遍照金剛」など、人間はリーダーとなる人物の哲学(あるいは都合)でさまざまな仏・経典に「南無」を奉じている。要は仏・経典とは「よりよき方向」への道しるべであり、それを表す何かに「南無」すればよいのだと思い直しました。

数学者岡潔は著書「春宵十話」で「理想とは真善美」であり「理想の高さが気品の高さになる」と説きました。

とすればたとえば「南無理想」でよいではないですか。

本来、そこから出発し、仏・経典に置き換えたのでしょうが、現代に生きる僕たちはその本質を忘れ、「南無」を宗教の世界においてきぼりしてきてしまいました。

「南無」と唱えた瞬間、その後に続く帰依すべきものごとは「よりよき方向」以外にありません。

すなわちより高度で汎用性の高い「南無」という文言のみで構わないので、日々もっと用いるべきではないかと僕は気付いたのであります。

トイレを掃除しながら「南無」。

古くなった食器を燃やさないゴミ袋に入れながら「南無」。

庭に除草剤を撒きながら「南無」。

コミュニティの回覧文書を考えながら「南無」。

単調な毎日に「南無」を加えることでその行為を信じることができ、なんと前向きへの勇気がもらえることか。

もしかしたらいつも布団から離れがたい定時の起床時間に「南無」と唱えてみるのも効果的かもしれません。

これを最後まで読んでいただいたあなたに「南無」。それは信じあう世界へと歩むための杖でもあります。

 

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