年末年始に実家の物置を片付けたら昭和8年の新聞が出てきた話は先日記事にしました。
じつはその日、こんな物も発見していました。
古い掛け軸です。
左は鍾馗様、右は寿老人でしょうか。
この画像をつれあいにLINEで送ると「鑑定団だ!」と即座に返ってきましたが、残念、そんな値打ちはまったくありません。
大家の銘があるわけではないし、賛もなし。まずそもそも絵がヘタ。素人の僕でもわかります。
鍾馗様は線に迫力がまったくないし、剣もとってつけたように薄く描かれているのみ。おどおどした表情はひょうきんでさえあります。
一方寿老人は雪舟を真似たのか、メリハリのある輪郭と直角に折れる大胆な筆遣いを見せていますが、巻物らしきものをまったく持てていません。幼女のように抱きかかえています。
またどちらも墨の乗りが平坦。たぶん印刷物でしょう。
まあ、それは知れたことなのか、これらの掛け軸は箱に入れられることもなく、裸のまま掛けひもで括られ、埃をかぶっていました。
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さて、以上のように、ひととおり呆れたところで、あらためて眺めていると、別の感情が沸き上がってくるのでありました。
実家の床の間には普段「天照皇大神」の掛け軸が掛かっています。それは祖父が当主だった時代からのものです。僕の記憶ではたしか村の祭礼や新嘗祭など特別な日に、この鍾馗様や寿老人に替えられました。
客人に粋人ぶりをただ披露したかったのか、あるいはそれなりの由緒があったのか、それがどんな意味を持っていたのかよくわかりません。祖父は「どれっ」と勢いよく膝を叩くと、こうした掛け軸を引っ張り出してきました。
まだ子どもだった当時、床の間にしつらえられたそれは立派に見えたものでした。
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これはこれで先々代の思いがこもり、わが実家の記憶のよりどころとなる遺産。そう思うと、どうにも処分に困ってしまいました。
「物の価値は値段ではない。それぞれの心が判断するもの」。きれいにまとめるつもりでしたが、はてさて、どこに仕舞ったものか。