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幼い頃、実家は農家で、周囲に田が広がっていた。

昔の大工の言葉で「ゴックの家」。奥行き5間、幅9間の古い茅葺屋根の母屋に、よく燕が巣作りにやってきた。軒先なんて、甘いものではない。畳の広がる座敷の真ん中に巣を作るのだ。

当時は家勢を誇示するため座敷を横断する太い梁に新巻鮭を吊るした。お歳暮にもらった品の数を誇ったわけだ。

大きな干物が暖簾のように並んだ光景は子どもながら壮観に思った。吊られたまま身が少しずつ切り取られていく姿はオスカー・ワイルドの「幸福な王子」のように少し可哀そうでもあった。

さて、そのために梁に打ちつけられた五寸釘が、春には燕の巣作りの格好の土台となったのである。

燕はまず軒下を入ったり出たりし、庭をせわしなく舞い飛ぶ。年寄りはそれを見つけると座敷の戸を広く引き開ける。そして梁の下に新聞紙を広げるのである。まるで福の神を迎え入れるように、うやうやしく。なぜなら燕は害虫を食べる益鳥。農家にとってはありがたい“季節の客人”だったからだ。

彼らは近くの田から泥やわら屑をくわえて来て、2日3日で頑丈な土の巣を作ってしまう。日本古来の建築技術である土壁も、もしかしたら燕から学んだのかもしれない。

やがて卵が産み落とされ、ヒナがかえり、親鳥がエサを運んで来る。その一部始終が家の中で観察できた。新聞紙には毎日泥かすや虫の死骸、糞、ときには生まれたてのヒナまで、何かしらの落下物があった。

燕が夜行性であるのかわからないが、メスが抱卵する辺りから、夜も戸は開け放たれていたように記憶している。それまで座敷に寝起きしていた子どもたちも、別室に移動しなければならない。

ヒナが生まれると、早朝に飛び起き、親鳥といっしょの姿を巣の下からじっと見上げたものだった。

巣立つまで2~3週間はかかっただろうか。ぴいぴい鳴いていた子鳥たちは、いつしか外に飛び立ったきり帰って来なくなり、巣はもぬけの殻となる。年寄りが金づちでそれを打ちこわし、いつもの新聞紙がそれを受け止めた。

座敷から遠くの里山に目を移せば、すでに光眩しい季節。若葉が萌えていた。

 

 

 

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