その子は路線バスで幼稚園に通っていた。
農業・漁業以外にこれといった産業もないひなびた田舎町に専用の送迎バスなど望むべくもない。園児は首から定期券をぶら下げ、大人たちといっしょに街まで通っていた。
その子はバスの先頭に座るのが好きだった。その日は、いつになく混んでいて立っていなくてはならなかった。目の前の先頭座席には、たくさんの本を膝に重ねたお姉さんが座っていた。
バスが揺れるたびに体ごと持って行かれるのを見て、危ないと感じたのだろう。お姉さんは本を脇に寄せ、その子を膝に乗せた。そして1冊を手に取り、広げて見せた。きれいな写真がたくさんあった。その子は大人になってから、不思議な気持ちを抱えたまま思い出すのだが、それは仏像の写真集だった。
柔らかい膝の上で、やさしい声で何かを説明してくれている。わからないけど、うんうんと答えている。暗く沈んだ色の、見たこともない、子供には不釣り合いな本格的な仏像写真。一生を左右するようなインスピレーションに満ちた特別な瞬間が、その子に訪れていた。
ありがとう、とお礼を言うとその子はバスを降りた。見上げた窓ガラスの向こうで、お姉さんは手を振り、バスの発車と共に去っていった。それからその子とお姉さんが会うことはなかった。
バスは永遠に遠ざかっていく。しかし膝の上の時もまた永遠にリピートを繰り返す。お姉さんは気付いていないが、彼女の美しい人生がその子の記憶に宿されていた。