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失った親友のこと。それから十数年後に思うこと。

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2007年1月31日、僕は親友Kを失った。

いつものように夕方、近くの公園のグラウンドに出掛け、8kmを走り終えたあと、スマホのメールを確認すると奥さんから今亡くなったとの知らせが入っていた。

僕は家に帰り、着替え、千葉のがんセンターに駆けつけた。

病室に入ると、奥さんと二人の若い息子は部屋の隅に座りうつむいていた。僕は彼の手を取りその冷たさを確認した。ただ黙って彼の死に顔を見た。感情の吐露は家族に対して失礼だと思った。だから僕は静かにKの死を認めた。

Kは小学3年生のとき僕らの学校に転校してきた。きつい女先生の指名で国語の教科書を読まされたときいきなり泣いたという。二クラスしかない隣りの組での出来事を耳にし、僕は笑った。

でも、それからの快進撃は目覚ましかった。徒競走は早い。ソフトボールは上手い。そしてカッコイイ。

小学5年生の放課後の掃除のときクラス全員で校外へ脱走した。理由は先生が贔屓にする児童とそうでない児童がいるとのことだった。親を呼ぶという先生の脅迫からほとんどの子が教室に戻るなか、Kと別の児童Mと僕の三人だけが最後まで抵抗した。Kと僕は贔屓される側の児童だったが、それが意地となった。崖に追い詰められ寝返ったクラスのみんなに責められたときの疎外感はトラウマになった。Kと僕はそんな戦友だった。

小学6年生のとき、Kは夏休みの宿題で金網に歯ブラシで水彩絵の具を刷きつけるブラシアートで異彩を放った。図工ではクラストップを自認していた僕は当時、その手法がまったくわからず当惑するばかりだった。

中学1年生のとき、班ノートで見知らぬ男女の出会いをショートストーリーで描いてみせた。僕にはできない大人の芸当だった。

Kは中学で最初野球部に入ったがその封建的な仕打ちに嫌気が差し、一人サッカー部を始めた。東便所の裏でいつも一人リフティングをしていた。誰もが部活に入らなければならないという校則が招いた悲劇だった。僕はかける言葉を知らなかった。

文通していた初恋のNに彼と友だちになりたいと打ち明けた。たぶん行動的なNがそのことを伝えてくれたのではないだろうか。程なく僕らは友人になった。

高校生になり僕とKは毎朝いっしょに電車通学した。いつも車内で目があう隣りの女子校の先輩は僕に気があるのかと思ったけど、実はKを見つめていたのであって、その後結婚に至る。

高校3年生の夏休みの最後8月31日に二人で埋め立て地の岸壁に釣りに行った。退屈さを表すのに相応しいじりじりと暑い日で、案の定僕らは坊主だった。

いっしょに市立図書館で受験勉強をするが、近くの弁当屋のおにぎりが旨いのどうのとじゃれ合うばかりで試験対策はいっこうに進まなかった。

そして僕らに奇跡は起こらず揃って浪人した。

Kはいつからそんな人脈を得ていたのかいまでも不思議なのだが、地元の名士の養子で辺りの夜の商売人の新進気鋭だった“社長”と縁故があった。浪人中のアルバイト先として二人で面接に伺い、K は自ら系列店のラーメン屋を志願し、僕に女子校の通学路にあり、当時人気だった喫茶店への口を譲ってくれた。Kはそんなやつだった。

二人で同じ教習所に通い運転免許を取得した後、練習と称し深夜に彼の父の車で房総半島を半周した。あるとき砂浜に車を止め仮眠をとった翌朝、タイヤの側まで波が打ち寄せ、早朝の部活のランニングの女子中学生に不審の眼差しを向けられたこともあった。

件の先輩との車デートになぜかKは僕を誘った。後部座席で僕は一人弟のようにわがままを言った。

僕が大学を中退(除籍)し、人生に惑ったときまっ先に頼ったのはKのアパートだった。彼は大学に通学しながらバブル景気直前の日本市場を狙い進出していた外資系証券会社に職を得ていた。彼のもとに居候し、僕は近所のラーメン店でコピーライターという職業に惹かれることになる仲畑貴志氏の「コピーは弾丸のように真っすぐ飛びターゲットのハートを射抜く」という文章に出会う。

僕の分岐点にKがいた。

仕事が忙しくなりしばらく交友が途絶えた後、恩師の葬儀でKと再会する。最近、脳腫瘍で入院し一命をとりとめたことを告げられた。

快気祝いとして日光への旅行を企画した。費用は当時羽振りのよかったこちら持ち。いわゆる大名旅行だった。

Kはその際奥さんの携帯の電話番号を教えてくれた。「用もないのに電話しちゃうぞ」と僕は冗談めかした。彼はてんかんの症状があり、もしものとき奥さんに知らせほしいというのが真意だった。それほどKのことをわかっていなかった。

脳腫瘍が肝臓に転移しわざわざ遠く離れた著名な病院に入院した。たまたま僕のつれあいの実家の近くで美味しい鰻屋さんのあるところだった。

病院食がまずいと嘆いていたKのため、事務所を抜け出しては鰻弁当を買い求め彼といっしょに病室で食べた。1時間ほどで暇のそぶりを見せると「もう帰るのか」と決まって引き止める。すまん俺はつらくて耐えられなかったんだ。

あるときKが弱音を吐いた。僕は「生きていなくちゃ困る。いっしょにお互いの栄光を語り継ごうぜ」と言った。それほど彼が眩しく、友だちになれたことがうれしかったのだ。しかし彼から返ってきたのは「わかったわかった、お前が凄かったのは語り継ぐから」という言葉だった。「お互い」ではなかった。冗談でもいいから「そうだな」と言ってほしかったのだが、そんな気概はとっくに失せていたのだろう。なのに無用な気遣いまでさせてしまった自分がはずかしかった。

Kは47歳でこの世を去った。僕は来年61歳になる。この13年間、本音を吐露できる友人を知らない。たぶん不幸なことなのだろうけど、それでいいと思っている。だってお前ほど最高なやつはいないからな。

めずらしく大みそかに夜更かしをした。柱時計を見上げると2019年はいつのまにか2020年になっていた。

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