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生に執着せよと父は教えてくれた

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父は病床で「スイカが食べたい」言った。
命日は8月15日だ。その前の2週間、
僕は付き添いで病室に泊まり込んでいた。
その直前のことだから、たぶん7月末のことだと思う。
仕事を終え夜に東京から駆け付けた僕に
それはどうしていいかわからない最期の願いだった。
地方都市の夜、果物屋なんてどこにも開いていない。
僕は「わかった」とひと言放ち病室を後にした。

肝臓がんにかかった父は生に執着していた。
病院を勝手に抜け出し
深夜に幽霊のように玄関の木戸を叩いたことは
一度や二度ではなかった。
そのたびに母は恐る恐る、そんな父を迎えた。

実家の片づけをすると
父が晩年買いあさった通販の品がつぎつぎと出てきた。
焼き芋がかんたんに作れる鍋。
細い管の詰まりを解消するブラシ。
まだ壊れていないのに予備のための鐘の鳴る柱時計。
電話で応対してくれる若い女性は
病弱な父に真摯に対応してくれ
きっとそれがうれしかったのだろうと母は評す。
でも僕は、父はもっと生きると信じていたのだろうと思う。
本気でそれらを元気な余生のアイテムにしようと
思っていたのだろうと思う。

じつは僕の親族に自死した者は少なくない。
母方の祖母、祖母方の曾祖母は農薬を飲み逝った
嫁が入水し、葬儀で「馬鹿が」と罵られた夫は
その数年後首を吊った。
その父は一度農薬自殺を図っていた。
母方の従姉はうつ病の末自ら命を絶った。
幼いころ、僕を特別に可愛がってくれた
2歳上のお姉さんだった。

僕だって、大学を中退(除籍)する直前
ロープを手に持ち倉庫の梁を見上げた過去がある。

でもね。わかったんだよ。
自死した者がそのひとの近しかった者をどんなに傷つけるか。
みんな自信を無くすんだ。
どうして止められなかったんだろうと。
毎年開かれていた「いとこ会」は二度と開かれないし、
墓参りに行くのさえ思いとどまってしまう。

だからということではないんだけど、
その対極にあり生に執着した父は、
やはり立派な人間だったんだなと思うんだ。

いまは亡き親友Kがある日、酒場で僕の父と偶然席を共にし、
「お前の父ちゃんは凄いぞ」と教えてくれたことがあった。
父が、こう呟いたそうだ。
「ひとは氷山のようだ。ほんの一部しかみんな見ていない。じつは海の下にとてつもない量の存在があるのにな」

僕は残念ながら、海の下の父を知らない。でもそんな誇りを持ち生に執着した父を誇りに思う。

ひとは召されるまで粛々と生きなければならないと、やはり思うのだ。

 

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