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おはぎとミソハギ

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おはぎの美味しい季節になりました。

子どものころ、ぼたもちとおはぎは別物だと信じていて、僕はだんぜんおはぎ派でした。なぜかぼたもちは餅をあんこで包んだもの、おはぎは半殺しについた餅米をあんこで包んだものと信じていたのです。ご飯のつぶつぶが口の中でもろっと崩れるのが食べやすく、大きなものでも2個はたいらげていました。

あれは実家の風習がただそうであって、世間様では半殺しをあんこで包んだものが、ぼたもちであり、おはぎである。お彼岸に、仏さまに手向ける花の代わりに供えるものだから牡丹と萩の名がつけられている。そう知ったのは、もう二十歳も過ぎたころで、デートの喫茶店でカノジョに教えてもらいました。

さて、僕のおはぎにミソがついたところでミソハギのお話です。以前、母から聞いたエピソードをご紹介します。

お盆を前にしたある日、和菓子屋さんに若い奥さんがやってきました。ショーケースの左右をくまなく探して、おもむろにミソハギは置いていないか、というんです。

店主が「うちは菓子屋なのでそんなものは置いていない」と答えると「おはぎではないんですか」ときょとんとしてしまったそうです。

ここで笑えない若い方もいらっしゃるかもしれません。解説するとミソハギとは「禊萩」と書く植物のことです。味噌餡で作られたおはぎのことではありません。古い風習の残る家では、お盆にミソハギの切り花を束ね、水を張った小皿にのせ、仏壇にお供えする決まりがあったりします。たぶんその若い奥さんは旧家に嫁がれてきた方でミソハギの用途をご存知なかったのでしょう。

ただ僕もなぜミソハギがお供え物になったのか、確かなことを知っているわけではありません。母や親類の年寄りに話をきくと、どうもさまざまな説があるようなのです。たとえば「昔、お盆の迎え火は松明を使っていて、その炎をミソハギにつけた水で消していた名残」、たとえば「迎えた仏の足を洗うため」、たとえば「仏の渇きを癒すため」と、どれもふむふむと納得できそうな由来ばかりです。

故郷では8月14日に菩提寺のお坊さんが来宅し棚経を上げてくれます。お坊さんはミソハギを片手に持ち、位牌や仏具の上を払うように振っていました。穢れを払う、という役割もありそうです。

今年のミソハギは隣家から譲ってもらい用意したそうです。例年、庭の一隅に自生したものを採っていたのですが、暑かった夏のせいか花が咲かなかったと母は嘆いていました。

来年はうちのミソハギでお祓いしてもらおう。名調子でお経を唱えるお坊さんの後ろで、僕はそんなことを思っていました。

 

 

 

 

 

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