幼な子には、この世界が善意で満ちていることを教えるべきなのか、それとも悪意の存在を教えておくべきなのか、ふと悩みました。
昨日、1歳10ヵ月になる孫娘が来宅し、二人で遊んでいるときです。
小さいおもちゃのブロックを手に隠し、握りこぶしのどちらに入っているか当てさせるゲーム。
がっかりさせないように、左右どちらの手にも入れ、ハズレをなくしてあげました。本人はまだ気づきませんが、ブロックの入っている数で違いを出しました。
最初は、指さしたほうをすぐさま広げます。おもちゃがあります。
しばらく後、今度は指さしたほうに「本当にそっちでいいの?」と声をかけ考えさせます。すると必ず反対側の握りこぶしへと変更します。そして広げると「よかった!」。おもちゃがあります。
彼女は失敗しません。すべてが順調なたのしいゲームです。
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さて、ここでおじいちゃんの理性が目覚めます。
片方の握りこぶしに何も入っていないという現実も教えてあげるべきなのではないか。
「本当にそっちでいいの?」と声をかけ、入っていない方へと誘導するブラックおじいちゃんがいることを教えてあげるべきなのではないか。
どちらも大切な教訓であるはずです。そしてそれを知る瞬間が大きな痛手を伴うものではなく、些細な心の傷で済むようなものであってほしいのがおじいちゃんの願い。
しかし、つぎのステップへと進むことができません。悪者になるのは、ちょっと抵抗があるのです。やさしいおじいちゃんのままでいたい、というのが正直なところです。
幸い、このゲームはすぐに終わりましたが、もやもやが消えることはありませんでした。
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大学生の頃、田舎で塾講師のアルバイトをしていました。塾長の家でマージャンをしていると近所の肉屋さんの店主がやってきます。そして僕らに八百長のさまざまな手口を実演してくれました。僕はそのひとを恐いと思いました。でも、そこにはひとの狡さ、博打の裏側を教える親切心があったはずです。
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僕はまだ孫娘の“お肉屋さん”になっていません。いつかおじいちゃんは心の小さな壁を打ち破ることができるでしょうか。
何も握っていない片手をつくれたとき、おじいちゃんは孫娘に育てられます。