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夫の顔を忘れた母

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母が、父の顔を忘れたと言う。

「これといった特徴がない平凡な顔立ちだった」と笑う。

「だからときどき遺影を見るようにしている」のだそうだ。

古い家だから天井が高い。長押から上も相当の高さがあり、仏壇の側には昔から大きな遺影が飾られている。祖父、祖母の隣りに父が鎮座ましましており、三人そろって微かな笑みを広い座敷に投げかけている

父が亡くなって19年経つ、記憶力の低下と母に指摘するのは酷だろう。しかし続けて妙なことを話し出した。

僕の妹が遺影を見上げ「中の写真だけ取り出したら、けっこう男前に見られるんじゃない?」と言ったそうなのだ。「あたしは、ぜんぜんそうは思わない」と僕に否定してみせる。

妹が父をイケメンと見なしていたとは初耳だった。遺影はたしかに優しく見える写真である。母がそれを選んだ。ただ生前の父に対してはむしろ“強面”が兄妹の共通認識だったはずだ。あとで妹に確認するとやはり作り話だった。そんなこと言った覚えはないと笑い飛ばした。

母は続けてこんな話もした。

ここの家のひとはもともと色が黒かった。ある日家の前で立ち話をしていると、遠くから父がやってきた。相手はそれを見て「あら、あのひとは後ろ向きで歩いているの、どっちが前だかわからない」と評したそうだ。そう。それは合っている。昔聞いたことがあるし、確かに父は真っ黒だった。

母はこの頃、虚実を入り混ぜて話すようになった。日がな一日コタツで横になっているので、いざ布団に入ると眠れない。夜の長さに気を滅入らせ、いろいろ考えているうちに記憶が錯綜し、ありもしないことを組み上げてしまっているようだ。歳が歳でもあるので病院で診てもらったほうがよいのだろうが、本人は頑として受け付けない。

まあ父をイケメンという見方もできる、と考えたとしたら、それはそれで幸せなことだろう。長く生きるためにはボケも方便である。

昔、義姉(夫の姉)の嫁ぎ先に義妹が訪ねたところ、あとでその夫から足の指まで黒く感心したという連絡があった。義姉、自分の夫、義妹まで全員黒かったというオチだが、真偽のほどは定かではない。でも、二人で大笑いできたのだから、悪い作り話でもないのだろう。

 

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