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目先の経済脳にこころが干からびてはいないだろうか?

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昨年秋ごろから気になっていることがありました。うまく文章にできないでいたところ、暮れに新たな問題が発生し「気になっていること」はふたつになりました。

どちらも経済と宗教の問題です。

 

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「もったいない」か「もうしわけない」か

学校給食が昨秋、SNS上で話題となりました。本題は給食を残すことの是非であり、「是」の根拠として本人の自由意志が尊重されるべきという意見がありました。

僕が気になったのは「非」の根拠として多くのメディアが取り上げた「給食センターのひとがせっかく作ってくれたのに残すのはもったいない」という意見でした。

これは労働と材料のコストに関する経済的ロスのみを視野に入れたものです。

果たして子どもたちにこれを根拠として「非」を説くのは正しいことなのでしょうか。

私たちは自らの生のために他者を搾取する運命を課せられています。給食は牛、豚、鶏、魚、野菜、果物などを「屠(はふ)る」あるいは「採取する」ことで作られています。

たとえばチキンカレーのメニューに一校何羽分の鶏が生命を捧げているでしょう。

この他者の生命の犠牲の上に私たちの生が成り立っていることに思いをはせることから教え諭すべきではないかと思うのです。「もうしわけない」という宗教心こそイの一番だと思うのです。

その上での経済効率であり自由意志ではないでしょうか。

 

結婚式場と池の水をぜんぶ抜きたい有名寺院

さてそんなことを思っていたところ新たな問題が僕の前に現れました。

あるテレビ番組の池の水をぜんぶ抜く行為の生命を軽視する不快感です。

これはすでに問題を提起したメディアがあり、一概に正解を導き出せない難しい問題であることは理解しています。

日本の在来生物の保護を優先すべきことはわかるのです。

しかしだからといって外来種を殺戮していいという論理には至らないはずです。

外来種を追いつめるタレントや専門家の瞳孔が開き血走った目は、ファシズムの一方的な正義に酔い弱者を迫害する愚衆のそれに酷似しています。

純血主義の行き過ぎは特定の民族の排除につながり、現代では難民問題として表出しています。

僕がこれは捨て置けないと思ったのは、ある有名寺院の僧侶が番組中、一回全部抜いてもらったが池の濁りが消えないのでもう一度抜いてもらいたいという趣旨の発言をしたことでした。

番組ディレクターは恐らく自慢気に編集したのでしょう。その直後に結婚式場から見える濁った池の映像に切り替わりました。披露宴には透き通った清らかな池がほしい、ということなのでしょう。

有名寺院と結婚式場の関係の詳細は定かではありません。

でもこのような論理がまかり通るのはどうしてもおかしいと思うのです。

阿弥陀仏は一切の衆生は成仏すると説きました。それを誓い、成就しなければ仏にはならないと宣言した上で御仏になったことがその根拠とされています。親鸞はそこから「悪人なおもて往生す」とまで論理を高めています。

翻って僧侶が外来種の駆除を求めるとはどういうことでしょうか。それが経済的な利益を求めることにつながっていると喧伝されるのはどうなのでしょうか。

ここに宗教心は地に堕ちています。

たぶん僕の不快感は、一度でいいから、番組で外来種の供養をしていただければ少しは癒されると思うのです。絶対正義を謳うテレビ番組が「死」をイメージさせるコンテンツを放送することはまずないでしょう。しかしそれでは勝手に放たれ必死に生き延びてきた外来種たちに「もうしわけない」ではありませんか。

 

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