秋の陽が西に傾き、集落全体がもうすぐ山の影にすっぽり包まれる時刻。
歳の頃60代半ばとお見受けする姉さんが犬にひかれ歩いてくる。
休耕田の草刈りを終えた僕は田んぼの奥から道に向かい疲れた体を引きずるように歩いている。
しばし目が合い、どちらが先だったろう、「こんにちは」と声を掛け合う。
普段、集落に住んでいるわけではないので、見知らぬ顔でもあいさつを心掛けている。新住民の方ということがときどきあるからだ。まして老いのせいか視力が衰えたこの頃、よく見知った顔でさえ、判別がつきにくくなっている。
「草刈りはたいへんだね。あたしだって昔は田んぼをやってたんだよ。今頃は“おだがけ”でね」と姉さん。
“おだがけ”とは刈り取った稲を束にし、竹でしつらえた横木に掛け、天日干しにすることだ。
「ああ、ここでもやってましたよ」
僕は幼いころの記憶を呼び戻し、まるでいまそこにあるかのように指をさす。
「昔はよかったよお」
姉さんがいまどんな境遇なのかはさっぱりわからないが、なにか気に病むところがあるのだろう。誰でもそんなことはあるもの、と察し、僕も言葉を返す。
「昔は昔でたいへんだったでしょうが、それなりによかったですよね」
何がよかったのかは、自分でも判然としないが、郷愁というレベルにおいてたしかに「よかった」。
「そうだよ。本当によかった」
姉さんは「よかった」を繰り返し、田んぼの前を過ぎていく。
「ごめんください」
またどちらからともなく別れのあいさつをする。
僕は草刈機を肩に掛けたまま、空になった予備の燃料タンクと水分補給のためのミネラルウォーターをひろい田んぼを去る。
道の先で姉さんの声がする。「もう帰ろうか。そうか、そうか」と誰かに話しかけている。
集落はすっかり山の影となり、その相手が犬だと気づくのにしばしの間が必要だった。
コオロギは鳴いていたのだろうが覚えていない。僕の耳は、姉さんのつぎの言葉をただ待っていた。