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ズンダラ。ジョシチニー。ノムル。わが家で誕生したヘンな言葉たち

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新婚時代、二人だけのヒミツをたのしむようにさまざまな隠語を発明しました。いっしょに暮らすということ、人生の同じ時間をわかちあうということ、その愛おしさが募り募って、独自の言語でじゃれ合う習慣が生まれました。以来、子供たちも加わり“家庭”という小さな島国に独自の言語文化が育ちます。今回はわが家で誕生し活躍した(している)名作隠語「リビン語」たちをご紹介します。

 

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日曜日など、どこにも出かけない、誰も訪ねてこない、何も予定のない日に僕らは「ズンダラ」で過ごします。パジャマではありません。パジャマとお出掛け着の間の真ん中よりやや下に位置する、ヨレヨレで、なんならシミの一つや二つ探すことができる、まれにカギ裂きや穴さえある、そんなほとんどボロに近い服装を「ズンダラ」と呼びます。

ただし、布が擦れて向こう側が見えるくらい薄く、柔らかくなり、肌に馴染んでとても着やすい状態のパジャマは「ズンダラ」に入ります。互いの洗濯物を畳むなど長年夫婦をやってきた結果「ズンダラ」は単にボロいというだけでなく、着やすい、快適である意も含むようになりました。夫婦のゆるい関係が「ズンダラ」バンザイにつながっているように思います。

この言葉は「ズンボロ」と「ダラシナイ」によって構成されています。「ズンボロ」は今の人にはあまり馴染みのない言葉かもしれません。僕もなんとなくニュアンスを知ってる程度だったので、国語辞典でちゃんと調べてみました。三省堂の大辞林によると、その言葉自体の記載はありませんでしたが、どうやら「ズンベラボウ」が起源のようです。それは「行動や態度がなげやりでしまりがないこと」と解説されています。

つまりしまりがない上に襤褸(ボロ)であり、さらにそこに「ダラシナイ」が加わったのがわが家の「ズンダラ」というわけです。どんだけゆるいんだい、と突っ込みたくなるレベルのゆるさです。

 

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蒸し暑いけど冷房を掛けるほどではないときに「ジョシチニーにしよう」などと言います。これは「デスティニー」を含んでいて、気持ち的には「運命の除湿」という意で用います。

「運命の除湿」ってなんだい?と思われるでしょう。そう、ちょっとおかしいんですけどね。わが家の生活スタイルの根底に「節約」というのがありまして、たとえば電気代はなるべく低く抑えたいわけです。しかし今日は運命によってエアコンを使わなくてはならないと決まっている。そう思い込むことで「節約」の縛りを少し緩めるのです。これは仕方のないことなんだ、と自分に言い聞かせることで除湿の快適さを謳歌しようという趣旨です。

もちろん冷房や暖房にも「リビン語」は用意されています。冷房は「レイボニャー」、暖房は「ダンボニャー」と言います。なぜどちらも「ニャー」なのか。「ニャー」は猫の鳴き声です。これは甘えの感情を表現するものです。すなわち「今日は節約をやめて冷房(暖房)にしようニャ~ン、ゴロゴロ」というわけです。ここまでお腹を出して甘えられたら、何だって許しちゃうでしょ。「ジョシチニー」の限界を超えたとき僕らは「レイボニャー」「ダンボニャー」と発し自ら免罪符を発効できるわけです。お互いにすぐ戒厳令を解けるとっても便利なシステムです。

ちなみにわが愚息は大学生のとき、友人の家でうっかり「レイボニャー入れようよ」と言ってしまったそうです。「リビン語」は恥をかくことがあるので注意が必要です。

 

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A「コーヒーを飲む?」 B「ノムル」などといったシチュエーションで用います。「飲む」+「る」の終止形です。ただ「飲む」ではなく「る」を付けているところに強調の意があります。「飲む」という動詞に「る」という二重の動作が加わっているのが特徴です。「もちろん飲みたい」「当然飲みたい」「飲むに決まっているだろ」という気持ちを込めて、真面目な顔つきでアゴをやや引きながら「ノムル」と言います。

この言葉からは「シヌル」という言葉が派生しています。こちらは「死ぬ」+「る」です。「ああ、もう死んじゃう」というとってもキツイ状況のときに、今度は本当に死にそうなくらい顔をしかめて「シヌル」と言います。あるいは断末魔の言葉として「シ・ヌ・ル」と発する場合もあります。

「シヌル」は使い方を間違えやすい言葉でもあります。たとえば「俺がシヌル思いでやったのに」なんて言っちゃうと相手はただ笑って取り合ってくれないということになります。家庭内でも使い方のむずかしいちょっと高度な「リビン語」です。

 

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英語の授業で初めてingを習ったとき、何にでもイングをつけませんでしたか。僕たちがいっしょに暮らし始めたときも多くの「リビン語」はingから生まれました。でも、イージーにつけられるだけに、その言葉としての寿命は短く現在残るのはこの「イタレリングツクセリング」のみです。

これは「至れり尽くせり」をわが家風に丁寧語に置き換えたものです。相手の気持ちや行動を現在進行形にすることで、なおもいまその誠意が実践されていることを際立たせるのが目的です。

使用する場面は案外多く、たとえば市販のお弁当で割り箸の封につま楊枝が入っていただけで「イタレリングツクセリングだね」などと軽く声を掛け合います。小さな親切を改めて取り上げ、家族で共有できる便利な言葉です。

 

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ご夫婦で英語の活用の謎を議論したことはありませんか。わが家では語尾にくるer・orとistの使い分けについて数年に一度、以前に同じことを話したとわかっていながら、意見を交わします。たとえばテニスプレイヤーとアルピニストはなぜ語尾が異なるのでしょう。テニスプレイストでいいし、アルピナーでもいいはずです。

そんなルーティンからいつのまにか生まれたのが「オベンテンター」と「オベンティスト」です。これは「お弁当」がベースになっています。仕事場にお弁当を持って行っていた頃、前夜に確認するのがこのことでした。「明日はお弁当の人?」という意で「オベンテンター」や「オベンティスト」を使います。

では語尾の「テンター」と「ティスト」の違いはなんでしょう。これはお弁当の中身の充実度の差を示唆しています。議論の末istのほうがer・orよりもちょっと玄人っぽいという結論が導き出されました。そのことから「オベンティスト」がより格調の高いお弁当を指すようになりました。

とはいえ毎日のお弁当のことですから、差をつけるといっても限界があります。ウィンナが1本多い、ごはんの量が少し多い、それほどの違いしかありません。しかしこちらから「オベンティスト」を要求するときは「仕事が忙しい」というサインでもあり、それはそれで重宝した「リビン語」です。

 

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「バベルの塔」についてこんな逸話があるのをご存知ですか。どこまでも天に伸びる塔を建てようとした人間を不敬と怒った神は職工たちの言葉を通じなくしてしまいました。おかげで協力して作業することができなくなった人間は塔の建設に失敗します。

同様に僕は、恋人たちの不和は言葉のすれ違いに最初の兆候が表れると思っています。すべて言わなくてもニュアンスで通じ合っていたお互いの気持ちが、言葉を尽くしても正しく伝わらなくなってしまう。そんな経験がないでしょうか。

それらの逆説として「リビン語」は機能します。日々の暮らし、心の通じ合いの結晶として生成された共通言語は夫婦や家族の絆のよりどころとなるに違いありません。

あなたのおうちに「リビン語」はありますか? ためしに一つ作ってみませんか?

 

 

 

 

 

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