なぜか小さな花に惹かれます。だから庭の草取りをしても小さな花を咲かせる雑草を抜き取ってしまうのが忍びない。
いつか野生のスミレ草ばかりを残していたら、それを好物とする蛾が卵を産み付け、庭を毛虫がうじゃうじゃ歩き回るという事態となってしまいました。第一発見者の連れ合いは「うひゃあ~」と悲鳴を上げ、抜き取らなかった僕をさんざん責めました。でも仕方ありません。そんなことになるなんて知らなかったし、なにより小さな花が好きだからです。
そういうわけでスミレ草は駆除してください、はいわかりました、という契約が妻との間に結ばれました。僕は別の小さな花を探します。そしていま愛でているのがムラサキカタバミです。
スミレ草と同様、種を蒔いたわけではありません。風に乗ってやってきたのか、鳥のフンにまざっていたのか、一粒の種が僕の家の庭に落ちたのでしょう。かわいい葉が片隅でささやかに茂り、そのうち紫色の可憐な花をつけました。はじめはシロツメクサかと思ったのですが、調べるとムラサキカタバミということでした。四葉のクローバーは望めませんが、もしかしたら四葉のカタバミが見つかるかもしれません。それはそれで幸運の印として崇めても、誰も文句はいわないでしょう。
「置かれた場所で咲きなさい」。ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子氏のこの言葉が好きです。根底には「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままだが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章 24節)という教えが息づいていると一人思っています。つまり「あなたという種が落とされた場所で実を結びなさい」と解釈できる。
人生にはさまざまな時があり運、不運に左右されることがしばしばです。でもどんな時にあっても、そこで花を咲かせ、実を結ばせる努力をすることが、生きる一歩となるはずです。その意味で僕は氏の言葉をときどき思い起こします。
でも連れ合いとそのことについて話したことはありません。なんだか照れくさいというのが一番の理由ですが、意見を交わしたところで新しい発見が生まれるわけではないだろうし、夫婦の間柄が大きく変化するとは思えないからです。
それは僕の哲学として心に秘めておいてよいことでしょう。しかし哲学は行動の規範となるもの。自ずと生活態度にあらわれるものでして、それが小さな花の雑草を残すという妙なクセとなっているというわけです。
おかげでいまはこのような状態です。
庭の隅や鉢の中やら至る所にムラサキカタバミの葉が茂っています。
先週の日曜日、梅雨の到来に備え庭の植木の剪定や草取りをしました。もちろんムラサキカタバミだけは残しておきました。すると連れ合いが呆れたとばかりに声を上げます。
「あっちにも、こっちにも、まだカタバミが残ってるじゃない」
僕は何事もないかのように答えました。
「だってきれいじゃない」
連れ合いは困ったように口をすぼませ、それ以上文句をいおうとはしませんでした。
僕はムラサキカタバミが好き。連れ合いはそれがただの雑草にしか見えない。互いの価値観は変えようがありません。でも僕がそれをきれいだと思う心を連れ合いは認めてくれたようでした。僕がかつて毛虫のわいたスミレ草を潔く撤去したように、一つ譲歩してくれました。
夫婦という長い旅路の相手。思い通りにしようとばかりでは楽しい道行になるはずがありません。相手の言い分を認めあうというちょっとした心遣いが大切だと思います。事実それでなんとか三十数年持ちこたえてきました。
今朝トイレの窓にムラサキカタバミの一輪挿がありました。それを見て、僕はこの記事を書いてみようと思いました。
2017年6月4日追記
きちんと咲いた状態をお見せできなかったので、本日のムラサキカタバミの様子を。かわいいです。