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妻の笑顔と無敵の私

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離れて暮らす妻がおよそ1年ぶりにわが実家にやってきた。これまで毎年お盆にはお墓参りに来てくれていたが、昨年は雨予報のため見送ってもらった。ひとりで暮らす高齢の母を世話するため私が実家に戻った3年半前から別居生活が続いている。

昨春は耐火レンガを積んで作る簡易的な窯でピザを焼いた。今回はシーズンがぴったり合ったので自家所有の竹林でタケノコ狩りをいっしょにたのしんだ。

陽気のせいか大豊作で、すでに妻と家族の暮らす東京の家には大量に送ってある。お互いほぼ食べ飽きた状態なので、採るのは一晩だけ食べる量にしようと話したが、野山からの贈り物が大好きな妻である。気合の入り方が違った。

そして何をどうしてそうなったのか、スコップを踏んだ拍子に転び、お尻を激しく地面にぶつけたという。うちの竹やぶは斜面にあるためバランスを崩しやすい。普段お絵かきが仕事の彼女のことだから注意しておけばよかったが、それでもやはり転んだに違いない。

幸い翌日には痛みが幾分和らいだそうなので安心したが、LINEでいっしょに送られてきた画像にはその証拠が見事に描かれていた。地面の上に盛り上がっていた硬い竹の根にぴったり当たったようだ。見事にその節がお尻に現われていた。

じつはこのところ気分が優れていたかというとそうでもなかった。生来の人間不信がまた首をもたげ生きづらさを感じていたところだった。

しかし、それが彼女と久々に会ったことで一切吹き飛んでしまったのだ。

人間、社会生活を営む上でときに疎外感に襲われ所詮異邦人であることの虚しさを感じることがある。その孤独を妻が見事に癒してくれたのであった。

それは自分と同じ時をたのしく過ごし、喜怒哀楽を素直にぶつけてくれる、ともに生きる人として向き合ってくれるゆえの恵みだった。

この時代、一人で生きたほうが気を使わず傷つくこともなく楽でよいという考えがある。また長年夫婦でありながら同じ空気を吸うのも嫌だとばかりに疎遠となる方々も。

私には幸運にも笑顔をふんだんにくれる妻がいる。たった一人でいいのだ。その存在に私は生きる自信をもらえるし無敵だと思えるのであった。ありがとう、いくつになってもお茶目な妻。

 

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