狸に化かされた大叔父

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大叔父は、背が高く、笑顔を絶やさない男だった。10人兄弟の一番上が僕の祖母で、すぐ下の弟が大叔父だった。農業に篤い親は戦時中にお国から勲章をいただいている。それなりの家のお坊ちゃんだった。何にでも興味を示し、博識で知られていた。

僕の妹が結婚相手を決めたとき、まだ親同士が会ってもいないうちから、新郎の自宅を探し当て、カメラに収め、わざわざ写真を見せにきてくれた。少しおせっかいなところがあったが、人柄がそれを笑い話にした。

半農半漁の僕の生家では、秋に祭りがあった。いわゆる収穫祭である。近在の親類を呼び集め、御馳走を振る舞った。「祭り」が転じて「まち」と呼ばれていた。

当日は表座敷と奥座敷の仕切戸が取り払われ、客用の卓がずらりと並べられた。台所はてんやわんやで、いつもは祖父祖母の寝室となっていた納戸にまで、作り置きの料理が置かれた。昼近くになるとぼちぼちと親類がやってくる。大叔父は「まち」の宴席を賑わしてくれる主役の一人だった。

ある年のことである。大叔父が前年の「まち」の帰り道での出来事を語り出した。おしゃべり自慢の親類たちも話し上手が声を上げたのを知り、一斉に顔を向けた。

畑の中のでこぼこ道を大叔父は自転車を引きながら歩いていた。ちょうど日当たりのよい丘に差し掛かったところで、酔いも手伝い、昼寝を決め込むことにした。するとどうだろう。目の前に、またもてなしの料理が出てくるではないか。親類宅はすべてまわったはずなのに、まだもう1軒残っていたと思い込む。見覚えがありそうな主人の歓待に乗せられ盃を重ねたという。

そうこうして、もう食べられない、家に帰らなくてはと主人に告げようとしたところでくしゃみが一つ、目が覚める。陽は傾き、日なただったはずの丘の畑は秋風にさらされていた。脇に置かれた手土産は風呂敷が食い破られ、折箱の中の御馳走はほとんど無くなっていた。そこでハタと気付く。「狸め」。座はどっと笑いに包まれた。

噓か真か。それはどちらでもよかった。帰りしなに皆から「今年は化かされませんように」と一声かけられるお約束まで取り付けた大叔父の話芸に、みんな納得し笑顔で「まち」を終えるのだった。

昭和の中頃、その丘は夜になると人魂が飛び交うことで有名だったという。今はアスファルトで舗装された道がとおり住宅が立ち並ぶ。狸も、もうどこかに行ってしまったことだろう。

 

 

 

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