誕生の記

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1959(昭和34)年4月5日、午前3時。岡田きみのさんという助産婦(師)さんの手によって僕はこの世に受け止められた。体重2800g、身長50cm、胸囲31cm、頭囲33cm。まずは健康であったようだ。

そして両手を挙げて「無事」と言いたいところだが、若干そうでもなくなんとか63歳の誕生日を迎えることとなった。

ここで何度も宣伝しているようにここ3年は激動の年で、ついに昨年は軽い脳梗塞となり、従来の高血圧に加え、血液をサラサラにするための薬まで処方された。新たにかかりつけとなった診療所からは定期的に血液検査をしましょうと言われている。良好な方に向かってはいるが、糖尿病の値がギリギリ標準に戻らない。

大学を中退(除籍)し、アルバイトから契約社員となり、出会って3ヵ月で結婚し、20代で会社を立ち上げ、一男一女を設け、30代で自分の家を建て、離婚の危機を乗り越え…と、考えてみたら、若い時からどたんばたんやってきた。しかしさすがにこの歳になるとブッダのようにではないけれど、運命が導いてくださるならいつこの世とおさらばしてもよいような気持になる日もある。

古い家と蔵を解体した際に出てきた昔の婚礼写真に母は「結婚相手は誰でもよかった。とにかく山の中から海辺の街に出られるだけでうれしかった」と言った。同じド田舎なのに浜に出れば湾を隔てた向こうに東京の街灯りが見える、それだけで前に進んだ気持ちになったのだろう。僕が誕生したことに「必然」は見当たらない。

必要があり母の戸籍謄本を取り寄せた際、婚姻は僕が生まれた後の日付になっていた。母子手帳も「子の保護者」は祖父の名となっている。半農半漁の地主の家で跡取りをしっかり産めることがわかるまでは嫁として認めないという、ぬか床の底で漬かりすぎたしょっぱい風習に、僕の誕生が清冽な水をかけ母の幸福に寄与したといえるかもしれない。

一方父は数年の闘病生活を経て満64歳で亡くなった。地元では酒飲みとして知られ、旅先の美食を前にしても手を付けずただ日本酒をやるだけのひとだった。あと1年でおやじに追いつくが、さて乗り越えられるものかどうか。なるべく未練の残らないように毎日を送りたいと願っている。

妻からは今朝おめでとうのLINEが送られてきた。了解は得ていないけど、ここに転載したい。ごめん、いいよね。
「お誕生日おめでとう。
今日から63歳!
とにかく健康でいてほしいと願っております。
最近はたまにしか会えないからその痩せ具合に毎度驚きます。
普段の食事には塩分、糖分に気をつけ  
野菜、きのこ、海藻、こんにゃく、大豆製品など多めに取り入れてください、
と書いてまるで宮沢賢治だねと思う私。
だからほどほどに肉など食べておやつもしてくださいな。
ストレスばかりではかえって良くないね」

僕の誕生日、これまで出会ったたくさんのひとに「ありがとう」。

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