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50年前の小学校の先生

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小学3年生で初めて男先生が担任となり、そのまま4年生に繰り上がった。すでに中年で経験豊富ゆえ子どものあしらいがうまかった。冗談を言っては笑わせ、共感のうちにみなのこころを導いていく、そんなタイプの先生だった。

僕は4月5日生まれと学年一早かったのでずっと学級委員長だった。クラスをまとめる上で外せない児童と思われたのか、なにかと引き立ててくれた。

校舎の北側、用務員室の横に小さな花壇があった。ほとんど見捨てられた状態だったが、ある日先生はその再生に取り組む。その助手に僕を抜擢してくれた。張り切っていろいろ手伝ったが先生はよく「気が利いているが間が抜けている」と僕を評した。当時はがっかりしたが優等生のおごりを戒めてくれていたのだろうと今は思える。

先生は用務員室から使えなくなった鉄のフライパンをもらい受け、火鉢に火をおこすと掘り返した花壇の土を炒め始めた。どうしてそんなことをするのか質問したが先生は「いまにわかる」と理由を教えてくれなかった。50年後の老境を迎えた今、家庭菜園の土を耕し思い出す。雑草が生えた土の中には細かい根がはびこり放題だ。先生はこれを焼き払い花壇の土として蘇らせていた。その後学年が上がり「焼き畑農法」を学んだときようやく答えが分かったのだった。

僕の家は古民家で農業を営んでいた。土のついた野良着をいちいち脱がなくてよいようにトイレは母屋とは別棟となっている。大便は屋敷の端にあり、田植えや稲刈りの手伝いに訪れた方々にいちいち説明するのが面倒だったと見え、入口の木の開き戸にはコールタールで大きく「大便」と書かれていた。さらに備えられた紙は新聞紙を小さく長方形に裂いたものだった。僕はこの便所が恥ずかしく家庭訪問の際は冷や冷やしたものだが、命運はその先生によって尽き果てることとなった。

ある家庭訪問の翌日、先生はいつもの冗談のネタに僕の家の便所を取り上げた。
「〇〇の家のトイレはなアレをした後、紙で拭かないんだぞ。外に出て庭に張った縄にまたがって走りながらちょこちょこってこすりつけるんだ」
それはかつてないほどの大爆笑をさらった。僕も仕方なく笑ったが次の休み時間が最悪だった。みんなが僕を囲み「本当か?」と尋ね「な~わ、な~わ」とはやし立てた。ここは笑いに持っていくしかないと悟った僕は先生と同じ動作を披露し野次馬たちを納得させた。これもきっと当時持っていた自分の殻を打ち破れという先生の導きだったのだろう。僕は先生のおかげで一皮も二皮も剥けることができた。

あの先生はご存命だろうか。生きているならばすでに90は超えていらっしゃるだろう。

 

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