20年以上前のこと。実家のお盆は賑やかだった。
まだ親父が元気で、叔母家族も一家で帰省した。私と妹の家族それぞれの子が幼かったころは祖父母も含め総勢15名が築150年のちょっと傾きかけた古民家に集った。
お盆の初日13日は午前に仏壇を掃除し、前日に村はずれから採ってきた笹を仏壇前に立て精霊棚を作る。麻縄を張りそこにほうずきや飾り細工を施した五色の紙垂、そうめんに見立てたビニール紐、インゲンを長くしたような十六ささげ、柿や栗などの季節の実り、迎え火送り火の色鮮やかな提灯などを吊り下げた。
そして精霊棚の下には御座を被せた小さなお膳をしつらえる。仏壇の奥の位牌や線香立て、ろうそく、鐘「りん」などを前に出し並べる。寺の住職さんによる棚経の際、仏具に触れて使用するみそはぎは庭の隅でこの日のために栽培し水を張った皿に束ね置く。昔、近所に蓮田があった頃はその大きな葉を膳の下に置き、仏さまの食事のための供物を下げる器とした。
精霊棚に飾る五色の紙垂はハサミで良い形に切り整えなければならないのだが複雑で難しい。近所の細工名人にチラシの紙で作ってもらったものが仏壇の引き出しに大切に保管されており、祖父も、父も、そして私もそれを手本にした。
後年自分で笹を採りに行くようになり気づいたことがある。笹の葉の姿形も供養なのだ。父は生前剛毅な人物として知られた。その生き様を思うと笹もやはり葉が瑞々しく茂り勢いがあったほうがよいと思うようになった。おかげでお盆だというのに精霊棚は生気に満ちた。いやお盆だからこそ弔いの花のように命鮮やかであるべきなのかもしれない。
さて、午後に叔母たちが到着するとさっそく宴会が始まる。近所のスーパーで買い求めてきた寿司のパック詰めや焼き鳥、カツや天ぷら、畑で収穫した瓜の漬物などを肴に昔話で盛り上がる。
そのうち家長が風呂を浴びに立つ。提灯を手に近所の墓所近くまで迎え火に行くのだ。若旦那の私と幼い長男も続けて風呂で穢れを落とす。ただいっしょについてくる妻や女児たちは禊不要とされた。ご先祖様を体にひっつけ連れてくるのは男子の役目ということだったのだろう。
小山の上にある墓所の入り口階段に着くと提灯のろうそくに火を灯す。
「さあさあ、お迎えに上がりましたよ。みなさんいっしょに着いてきてくださいね」
主が仏さまの集まっているであろう薄暗い雑木林に向かい声をかける。子どもたちにはちょっと不気味な、でもわくわくせずにはいられない昔ながらの作法だ。
日がとっぷり暮れると庭に子どもたちを集め花火が始まる。それぞれの家族が持ち寄っているので相当な数だ。はじめは一つひとつ奇麗とか珍しいとか評するが、そのうち使い切ることが目標になり一人3本4本と一斉に火をつけ始める。座敷の座卓でのんびりビールを酌み交わしていた親父と義叔父のところまで花火の煙が入り込み、開け放っていた縁側のガラス障子を慌てて閉めたものだった。
柱時計が12回大きな音で鐘を鳴らし夜更けを知らせると遅くまで飲んでいた大人たちもそそくさと寝床に入る。翌朝の墓参りが皆を賢者に戻した。
古い家だったのでエアコンはなかった。夜もガラス障子を全開にし、緑の渦巻き型の蚊取り線香を焚き、扇風機を回して広い座敷に雑魚寝した。私の妻、長男の妻、ともに東京の街中の生まれだ。初体験時一睡もできなかったとどちらも後に明かした。
翌14日、いよいよお盆のメインイベントが始まる。山登りを伴う早朝の墓参りだ。
まだ夜が明け切らない午前5時前に起き、顔を洗い、そそくさと身支度を整えると、この日用に用意されたビーチサンダルを履き出発する。墓所はむき出しの土であるほか途中朝露に濡れた草道も歩くので普通の靴では都合が悪かった。
線香を7束、前日に切り採っておいた献花を8束、マッチ、新聞紙、おさご(米)、水、それぞれが手分けして持ち運んだ。
道すがら村中の“一家総出”と顔を会わせる。「おはようございます」と言い合う声があちこちから聞こえてくる。それぞれに帰省客が混じっているため見かけない顔の方もいらっしゃる。私ももともと普段実家にいないのでお互い様なのだが、それでも親しげに挨拶を交わすのだから田舎は温かい。
墓参りの最初の目的地は自所の墓地。50段近くもある狭く急な階段を上らなくてはならない。十数基ある墓石のそれぞれに線香と花をあげ終わると、つぎは墓所の奥手に構える急峻な土手の道なき雑木林を登る。村親戚の墓所が小山のさらに高い場所にあるためそこを近道としている。こちらは私の妻までだったがこんな無茶は生まれて初めてと笑った。
この小山には村の多くの墓地があり、線香の煙が木々から立ち上る眺めは壮観だった。
ほか2件ほど村親戚の墓所を巡った後、最後に無縁仏と地域振興の神さまの石碑にお線香を供える。子どものころお堂と呼ばれる念仏のための集会場がありその敷地に村のご先祖とされる小さな地蔵がたくさん置かれていた。その集会場が建て直される際に地蔵たちは無縁仏の近くの竹林に移された。その中の頬に手を当てた一体がうちのご先祖さまとされ線香をあげていたが、落ち葉に埋もれ、やがて誰も訪れなくなった。
村内の墓参りを終えると父と私は車で1kmほど先の隣村にある菩提寺に墓参りに行かなくてはならない。こちらにもわが家の先祖が祭られているからだ。その墓石は寺の墓所の外れにある。ただ住職によるとそこは村の共有地であり寺の管理下にないという。菩提寺でさえもその由縁がわからないというから相当古いのだろう。
主と若旦那が菩提寺から戻るとようやく朝食が始まる。出発からここまでおよそ2時間。午前7時辺りとなっている。
私の実家の墓参り後の朝食がまた一風変わったものだった。夏の暑い盛りだというのになんと熱い汁粉をいただくのだ。ご近所では台所の手間の省くため作り置きできるあんころ餅やおはぎ(ぼたもち)を食すらしい。どのご先祖の代でそういうことになったのか、一説には餡で包むのが面倒だったとあるが、ともかくお汁粉が手っ取り早いと採用されたらしい。
朝食を終えると各自座敷や奥の部屋で二度寝に入る。わが家系の男子は横になる際片手をL字に曲げ頭を支えながら寝るのが得意らしい。私の妻がそれを発見し、みんな同じ格好で寝ていると驚いたことがある。
午前10時を過ぎるとうちから嫁や婿に出て行った親類が墓参りと仏壇に線香をあげにやってくる。ここでビールが空けられ(実は父と私はお汁粉直後からやっているのだが)話に花が咲く。
昼食は人間さまはそうめん。仏さまは白米だけ。じつは仏さまのこれはお弁当とされている。午後は天国の市場に行き買い物やご馳走をたのしむのでおかずはいらないのだそうだ。一般にきゅうりの精霊馬、なすの精霊牛は仏さまが家にやってくるための乗り物とされているが、わが家では市場への行き帰りの交通手段とされている。
午後になると菩提寺の住職が棚経にやってくる。思えばこの棚経。仏さまが市に出向いているので仏壇には不在のはずである。朝の墓参りもすでに迎え火の後なので墓所に不在のはずである。お盆というのはどこか間が抜けている。
村内の多くの家が別の隣村の寺の檀家だが、わが家を含め古くからある数戸はこちらの寺の檀家である。とはいえわが家は先述のとおり寺に墓所がないため檀家料に相当する墓所使用料はかからない。そのためこの棚経手数料の5000円のみが毎年寺に支払うお布施となっている。別途施餓鬼供養の塔婆を3000円で受け付けているが有料となったここ数年は申し込んでいない。
15日、お盆最終日である。朝の仏膳はまだ市から戻っていないので不用。昼はかぼちゃの煮つけと里芋の味噌汁。盆の仏膳は必ず二人分用意する。一つはわが家の仏さま。一つはいっしょについてきてしまった餓鬼用とのことである。箸はおからと呼ばれる乾燥した麻の茎を折って使用。これは精霊馬・精霊牛の脚にも用いる。
そして午後の遅い時間、家長はまた湯を浴び、仏壇の前で提灯に火を灯し、仏さまと子どもたちの従者を連れ送り火を行う。
本日2022年8月15日は午後4時にたった一人で墓所の入り口まで仏さまを送った。台風直撃とコロナ禍のため私の妻、家族は実家のお盆に不在。祖父母と父はとっくに鬼籍の人となり、高齢の叔母はもう帰省しなくなった。年老いた母と初老の長男の二人だけのお盆。斜陽もまた風情があるとつぶやくのは負け惜しみだろうか。