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彼女と僕の、あのころ

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出逢って3ヵ月で結婚を決めいっしょに住もうとなった僕らは、結婚指輪の準備もまだだった。

指輪を作りにいくと刻印する日付はいつにするかとお店の人が尋ねる。同居を始める日以外は何も決まっていなかったのでその日にした。

新居となるアパートにはまだ彼女の引っ越しが済んでいなかった。でもとりあえず冷蔵庫さえあれば、いっしょに暮らせる。彼女がひとり到着を待ち、配達員に設置してもらい、近くのスーパーにひとりで買い物に行った〈冷蔵庫到着記念日〉が僕らの結婚記念日となった。

新居は地下鉄の駒沢大学駅の近くだった。僕が働いていた会社が渋谷にあり、深夜残業も少なくなかったので通勤に便利なそこを選んだ。すぐ裏手に駒沢公園があるのも決め手となった。ただアパートの作りは古く、入口のドアの取っ手がかんたんに取れてしまうほどだった。僕が24歳、彼女が22歳。まだぺいぺいのコピーライターとフリーランス駆け出しのイラストレーターが渋谷近くに借りられる部屋はこれが精いっぱいだった。

アパートは三畳に満たない板の間のキッチンと押し入れを備えた四畳半、その先に六畳の寝室があるいわゆるウナギの寝床だった。キッチンといったってたたきを含んだもので、靴箱のすぐ後ろで調理している彼女の背中に玄関から手が届くほど狭かった。居室はキラキラ光るラメのようなものが入った塗り壁。木製の柱との間に隙間が生じていた。お隣の部屋の夫婦喧嘩のやりとりがはっきりわかるほどその壁は薄かった。深夜に激しい口論が始まりゴトンと大きな音がする。それから声も音も一切聞こえなくなる。「きっと殺された」とひとつ布団のなかで僕らは囁きあう。翌朝何事もなく出かけていく音を聞き、よかったと胸をなで下ろすことがたびたびあった。

いっしょに住み始めると僕は半年ほどでフリーランスとなった。アパートの真ん中の四畳半に、彼女の父が若いころに購入した木製の机を持ち込み、前後向き合う形で互いの仕事机として共有した。あまりに狭い使い方だったが、新婚だったので近くにいられればそれでよかった。

彼女の主な仕事は僕が会社から発注していた。それがフリーランスとなったものだから、よく考えもせず独立した僕はもちろん彼女も仕事が激減した。暇を持て余した僕らは同時にさらに貧乏になった。

近くの八百屋さんに買い物に行っても、おサイフの都合でなかなか手が出ない。彼女のそんな姿を何度か見掛けた店主が隅っこに置いてある処分品を無料で分けてくれた。それでもたまには贅沢をしようと近所に見つけた小さな焼き肉屋さんに行く。予算はふたりで4000円。でもビールやお皿の追加で6000円を超えることがある。すると〈幕府〉である彼女から「外食禁止令」が発令される。今月の外食はこれが最後と誓い合い僕らは笑った。貧乏だったけど、それなりにたのしくやっていた。

天気の良い日には、彼女がお昼におにぎりを作り公園の芝生の上で食べた。数百円のバドミントンセットを売店で買い、ふたりでへとへとになるまで遊んだ。かわいいとエサをやるとたくさんの鳩に囲まれ彼女は悲鳴を上げた。数年ぶりの大雪という日には誰もいない公園に繰り出し、赤いビニール傘を手に踊る彼女を夢中で写真に撮った。

彼女はソフトテニスの強豪高校の副キャプテンだったということで、一度だけ公園のテニスコートを借りてプレイしたことがある。係のおじさんに「いままでの利用者で最もヘタクソ」と言われた。初心者である僕のせいだった。

最初の東京オリンピックで会場のひとつとなった駒沢公園では、休日になるとあちこちでスポーツ試合があった。陸上競技、アメリカンフットボール、剣道、レスリング、僕らはルールもよく知らずそれらを見物した。審判が笛を鳴らすたびに「なぜだろうね」などと話しながらそれなりに競技をたのしんだ。

なかでも僕らのお気に入りは草野球チームの試合だった。夕方、小さな観客席にビールを持ち込みライトの灯されたグラウンドをなんとはなしに眺めた。ヒットが出ればよろこんで拍手をし、エラーが出れば知らない兄ちゃんたちをヤジった。

およそ40年前、妻と私は若く、世間の同年代のひとたちと比べると恐ろしく呑気だった。あれからいろいろあっていまがあるわけだけど、生まれ変わってもまた妻とあの時代を暮らしたいと思っている。

さっきGoogleマップで当時のアパートを探したら「〇〇荘」という名のままそこに存在していた。ストリートビューに映る建物はさすがにきれいに建て替えてあったけど、思い出がそこに生まれたことを確かめられたようでちょっとグッときた。

妻にLINEで教えると「いっしょに行ってみたいなあ」と返ってきた。

 

 

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